若桜木虔メール通信添削講座 体験談 その15


《きらら文学賞》に応募、一次選考を通過して 五味渕 惠さん

 小説は読むのは好きだったが、よもや書く側に回るとは思ってもいなかった。
 ある日、児童文学賞の募集要項が目に留まり、閃く。
 幼い孫たちがシンデレラや白雪姫に夢中になっているのを見て、日本にもお姫さまがいたことを教えようと、筆を執った。
 規定は原稿用紙30枚。書いているうちにあれもこれもと広がりを見せ、納まりきれなくなり、やがて怪しげな小説へと移行していった。

 題材のヒントは、父方の祖先のルーツ。親戚の誰も判っていないものを調べ、その地へも行ってみた。
 そこで今まで世に知られていない歴史の断片に出合い、胸を衝かれた。
 幕末、徳川慶喜の弟である浜田藩の藩主に入輿した「堀田寿子」の一生を書くことに。老中、堀田正睦の姫として生まれ、落城する藩主の奥方となり、苛酷な運命に翻弄されながら、明治に生きた女性。
 何故、城を炎上させて、飛び領地へ移住する選択肢を選んだのか。主人公に成り代わって弁解をし、謝罪し、決断に至るまでの藩主や家臣団の葛藤を描いた。
 幕藩体制が終わった維新後に武家社会の者たちは如何に生きる術を学んだか。本当の誇りとは何か。主人公の目を通し、女性の観点から世の動きを捉えてみた。
 とにかく書き散らしたという表現がぴったりだっただろう。小説の「いろは」も知らず、きちんと勉強して完成させたい気持がわいた。
 検討の結果、行き着いたところが、若桜木先生の通信講座だった。

 まず「2〜30ページ送ってください」に始まり、「これはなんですか」と初回。視点も登場人物の動きもさっぱりわかりません、と言われた。
 それから少しずつ原稿を送り、訂正箇所を指摘され、注意され、泣きたい思いの日々だった。
 めげなかったのは先生が、初心者でも根性さえあれば小説は書ける、と仰った言葉。

 旅行以外は毎日、先生の添削を拝し、多いときは一日に3度も提出した。
 もちろん意思の疎通がうまくゆかず、「そういうつもりではありません」との思いを抱え込み、通信教育のもどかしさも感じた。
“顔が碧くなった”と書くと、自分の顔は見えませんよ。時代考証の間違いは山のようにあった。

 いつも心掛けたのは、同じ注意は二度と指摘されないようにしようと。それでも何度も繰り返した。
 時には先生のご指摘のきつさに音を上げて抗議をしたことも。こうして1年半、原稿用紙にして1000枚を書き上げた。この間、胃カメラを飲むこと2回。
 早速、応募しようと意気込んだが、応募要項に合うのは、最高でも800枚までの《きらら文学賞》しかなかった。

 急ぎ規定の800枚までに縮小、かえってすっきりとしたものになった。
 応募後、半年待って音沙汰がないときは、落選。連絡はなかった。
 でも、どうしても自分にとって記念となる一作で、是非とも製本したいと思い、先生のご紹介の出版会社へ。
 30部、50部、それなら100冊にして自費出版にしましょうと話は進む。
 昨年の4月末、晴れて完成し、アマゾンで売られ、紀伊国屋にも置かれた。
 応募したことも忘れた頃の8月、小学館から一次選考の29人に残っていますとの通知があった。
 それから7ヶ月、やっと「残念でした」とのお知らせ。(以下、抜粋を)
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 受賞後は職業作家として継続的にご執筆いただきたいと私どもは考えます。そのためには、小説技術が備わっていることに加え、文体や作品内容が商業出版物として魅力的であること、すなわち多くの読者を獲得しうる可能性があることも重視しました。
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 残念と言うよりは当然だろうと、正直、思った。
 広くいろんな方に読んでいただけるのは望外の喜びではあったが、力及ばず、致し方ないことである。
 満足感は充分で『堀田寿子』のあとに2冊を半年で纏め上げてお終い。もう頭の中はからっぽで、小説に対する未練も執着もない。
 要するに小説を通し、かねてよりの自分の意見をぶつけてみたかっただけなのである。
 小説家という者には決してなれない自分が、よく解る。小説家という職業の方に敬意を表したい。先生の細やかな辛抱強いご指導に感謝しています。
 文字通りの物書き初心者が曲がりなりにも一冊の小説を完成させることができたのですから。

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